私のブログ。

このブログを書いているのは誰かな? せーの、私だー!

2、3行で終わる小説集

一つ目。

「釣りはいらないよ」気前よくぽんと万札を渡すと、自殺ほう助屋さんは薄く笑いながら「良いのですか? 地獄の沙汰も銭次第ですよ」と言った。「現世ですら上手く生きれないのに、金があったくらいで地獄でどうにかなるとは思えません」と僕は返した。

 

二つ目。

 父の危篤に泡食って放り投げたまま行方が分からなくなっていたスマートフォンはその年のお盆に帰ってきた。父は奇跡的に一命を取り留めていた。

 

三つ目。

 シャープペンシルを分解するのが癖になってるんだ。中学のときに授業がつまらなくなってから。それから今日で40年が経つ。自然と磨かれた俺の業は、シャープペンシルをたちまちに素粒子レベルに分解する。

 研究所に素粒子発生装置として雇われることになった。

 

四つ目。

「すみません。今日カノジョの誕生日なんて早退しますね」と、カレシとカノジョを言い間違えてレズなのがばれた。

 

 

 

文フリ

先日5月5日に文フリ参加してきました。

それで『小学生のころクラスの女性に「塊魂やりこんでそうだね」と言われたが私は塊魂をしたことがなかった。』というコピー本を友人のブースで売ってました。

10冊つくって内ひとつを自分用、ふたつを友人にあげ、のこり7冊を一冊100円で販売したところ4冊ほど売れたらしいです。

お買い上げありがとうございます。

 

このコピー本、本来は作る予定はなかったんですが、久々に会った友人が文フリに出ると言うのが羨ましく思えて急きょ友人のパソコンを借りて制作しました。製作開始は5月5日午前1時。

完成は朝の5時くらいだったと思います。

誤字脱字が多く、冊子の題名も本編に無関係なものでしたが、自分としては満足しています。

続刊をつくるかは全くの未定ですが、気が向いたら作るかもしれません。

小学生の時クラスの女性に「塊魂やりこんでそうだね」と言われたが私は塊魂をしたことがなかった。

 みなさんはいつ物心がつきましたか?
 3歳とか4歳ですか。
 私の場合、15歳の時に物心つきました。中三の冬です。深夜BSで放送していたアニメをボーっと見ていたところ、突然自分がこの世界に存在していて、自分の体と心に対して主体性を持っているのだと気付きました。そして自分の状況を茫然と振り返り、私がいかに自らの心身に対して無自覚で、自分をとりまく世界について知ることに無頓着だったかが分かりました。「やばい、このままだと私将来ニートになるんじゃないのか」。本能的にそう思いました。その後私は生まれて初めて感じた焦りの気持ちに後押しされ、大学受験を志して高校三年間を受験勉強に捧げたのですがそれは別のお話。
 こんな調子でしたから私は15歳より昔の記憶が曖昧です。思いだそうとしても不真面目に聞いた授業の内容並みに覚えていなくて、子供のころ連れて行ってもらった行楽地や小学校や中学校で同じ部活だった人たちの名前も言えません。
 ですが薄暗い記憶の中にもかすかに光る灯火があります。両手で数えられるほど数少なくて曖昧な思い出ですが、私にとっては中学生以前の自分が確かに存在していたことを保証するものです。
 例を挙げれば、
「昼寝から覚めるとタオルケットがかけられていて母親が洗濯物を畳んでいた」
「幼稚園の身体検査が男女一緒に行われ、みんなパンツ一丁になったのですが、女の子の一人が胸元を終始隠して頑として見せようとしなかった」
「家の近くで大量にカエルを捕まえ、一晩虫かごに入れておいたら、翌朝暑さで全滅していた」
「小学生の時クラスの女性から『塊魂やりこんでそうだね』と言われたが、私は塊魂をやったことがなかった」
 と言った記憶です。
 こうした記憶は小説を書いていると時々思い出すことがあります。きっと無意識化に刻まれていたのがデジャヴを感じてひょっこり顔を出すのでしょう。
 私はもっと過去を思い出したい。中には辛い記憶もありますが、というか辛い記憶の方が多いですが、辛い記憶よりも忘れた過去が持つ不確かさの方が恐ろしい。その手の恐怖は心の暗いところをゆっくりと締めつけていく万力のようなものです。今まで歩んできた道が分からなければ現在を誇ることもできないではないですか。
 だから書きます。
 私はたまに小説を書きます。誇りと、自信のために。

落とす

 オレが会社帰りに利用した駅でよ、ぺちゃくちゃおしゃべりしてる女子高生の集団がいたんだ。まあぺちゃくちゃしゃべる女子高生の集団なんて珍しくないんだけどよ、でもアイツらったら髪は茶色いし、スカートは短いし、おまけに声まででかいとあっちゃあ当然周囲の視線を集める訳だ。珍しくなくても見てしまう訳だ。

 あのガキどもは分かってあんな格好やってんのか? すれ違う赤の他人にいっぱいじろじろ見られて不快じゃないはずがないだろうによ。

 でも悪いことばかりじゃない。アイツらが目立つおかげでオレは一番背の高い女子高生がかばんからハンカチを落とすところを目撃できた。彼女たちは話すのに夢中で落としたことに気が付いていない。オレは親切心を発揮し、ハンカチを拾い上げて背の高い女子高生に話しかけた。

「おい、落ちたぞ」

 背の高い女子高生はその不必要なほどに濃く化粧した顔を怪訝そうにして振り向いたが、ハンカチを見て得心がいった風に見えた。オレは女子高生が発する蒸せるような匂いに顔をしかめながら、やれやれだなと思った。しかし、彼女はすぐに不機嫌そうな表情をつくる。

「ちょっとオッサン。受験生に向かって『落ちた』とかありえなくない?」

 予想外の返しに戸惑っていると、隣にいた一番胸元をはだけている女子高生がキャハハと笑いだした。

「ちょっとユミ、そんな格好で受験生つったって説得力ないって。おじさん困ってんじゃん」

「なによお。あんただって受験生とは言えない格好じゃない」

 ユミと呼ばれた背の高い女子高生が応じる。

「でもさ受験にファッションはカンケーないよねえ。学力がありゃあいいのよ」

「違いない」

 女子高生の集団は一通り笑い合ったところでユミは思い出したようにハンカチを俺の手から受け取り、

「ま、ありがとーね。受験落ちたら恨むけど」と言った。

「落ちねえよ」

「は?」

「空を見ろ、一度落ちてきたことがあったか? 落ちただの滑るだのオレに言わせりゃ杞憂だ。杞憂でしかない」

 突然語り出したオレに女子高生たちは薄気味悪そうにしてオレから距離を一歩とった。オレもコイツらにはもう用はないから踵を返して足早に立ち去ることにする。

「空が落ちないか心配するような馬鹿と一緒にしないんでほしいんだけど!」

 背後から女子高生の怒った声が投げかけられて、「流石に受験生。漢文は勉強してるようだな」とおかしく思った。

 煙草が吸いたい。オレの足は喫煙所へ向かっていた。

没にした文章の供養

 大学の部室棟の一室で俺は師匠が原稿を読み進める様をジッと見つめていた。

 師匠。

 そう。この方こそ我が眼前の闇を切り開き俺を未知なる場所へと導く先導者。誰もが持たぬ才覚を多く持つ傑物である。師匠とともに本屋に行けば俺の知らない珠玉の小説をいくらでも選んで勧めてくれる。俺が夕飯の献立に迷えば思いのよらない料理を御馳走してくれる。小説の執筆に煮詰まっていれば、適切なアドバイスをくれる。

 大学の文芸サークルでの活動を通して師匠と知り合った俺は、数日でこの方の才能を見抜き、弟子入りを申し込んだ。最初は渋られたものの、平身低頭で連日頼みつづけた結果、師匠が折れる形で弟子入りを果たした。今では週に一度か二度のペースで俺が執筆した小説を添削してくださる。師匠も大学生であるから学業に多忙であろうに、わざわざ時間を設けて相手をしてくれるから、この方には一生頭が上がりそうにない。

 夜の文芸サークルの部室は閑散としていて、いるのは俺と師匠の二人だけだ。週末ならもう少し人は残っているが、平日ともなるとそうそう部室に残っている人はいない。師匠に教えを乞うには都合の良い時間だった。

「目を伏せてくれませんか。そう見つめられると集中して読めませんよ」

 俺の視線に気づいた師匠は原稿をめくる手を止め、たしなめるようにそう言った。

「しかし師匠、拙作を目の前で読まれては気になってしょうがないのです。もう夜は遅いことですし、家に持ち帰って、後ほど感想を頂くのではいけないのでしょうか」

「駄目ですよ。『しかし』や『でも』のような言葉を使っては。私の弟子になった以上、君に与えられた選択肢は私の言うことには二つ返事で従うか、弟子を辞めてもらうかの二択のみです」

師匠は悪戯っぽく笑った。そして俺の書いた小説の原稿を机に置く。読み終わったようだった。果たして師匠の目には俺の小説はどう映ったのか。好評か酷評か。不安と期待が入りじまって心臓の鼓動が早くなる。師匠が口を開いた。

「私事で申し訳ないのですが、実は今日、女の子に愛の告白をされました」

 飛び出た言葉が小説の感想でなく、椅子からずり落ちそうになった。

「師匠が女の子に恋をされるなんて想像がつきません。一体どんな女の子が告白してきたというのですか」

「その言い草は相手が私じゃなかったら失礼ですよ、君。まあ私自身も信じられなくて頬をつねったくらいです。でも夢じゃありませんでした。これがとても可愛い女の子だったんですよ。小さくて、可愛い黄色のシャツを着て、上品なスカートをはいていました。髪は黒くて肩まであって美しい。何より笑った顔がとても気持ち良い女の子なんです。透き通るような白い肌に赤い和傘を差して涼しそうにしていました。私としたことが彼女の魅力にくらっと来まして、その場で食事に誘ったのです。そうしたら意外に仰山食べること。一つ一つの所作が丁寧で汚さのない食事の仕方だったのに、目の前の山盛りの料理がみるみるなくなっていきました。ここまで綺麗で旺盛な食事の取り方は一種の芸術とも言えるでしょうね」

 師匠の褒めちぎりに少々うんざりしていた。それに、師として慕う人が他の誰かを褒める様を見て、何がうれしかろうか。俺は口を挟んだ。

「いったいどうしてそんな子が師匠に惚れたというのですか」

「昔、私に助けられたことがあって、それをきっかけに惚れられてしまったそうです」

「ああ。昔からの知り合いなんですね」

「いいえ、初対面です」

「あれ、でも昔助けたんでしょう?」

「私にはその記憶がないんですよ」

 師匠は一旦言葉を切り、勿体を付けるようにゆっくり口を開いた。

「彼女が言うには私たちは前世において聖戦を共に闘い抜いた戦友だったらしいのです」

 突拍子のない話が出てきて、話が怪しい方向に転がり始めたのを感じた。前世、前世ってなんですか、師匠。まさか信じている訳ではないですよね。

「まあ彼女の語る話の続きを聴きなさい。私と彼女は王国が誇る兵団が一員でした。当時敵対関係にあった隣国では独裁政治を行っており、我らが王国の正義に反するものでした。圧制を布く敵国から民を開放せんと私と彼女は多数の兵に混じり越境した。敵国の王を打ち倒し、革命を起こすためです。しかしその作戦は遂行されなかった。作戦を邪魔したのは、なんと私たちが哀れみ解放せんとした敵国の民衆たちだったのです。彼らの言い分は、たとえ王が暴虐の限りを尽くしていようと、それはその国の国民たちが立ち向かうべき問題であり、他国が解決に当たるのは筋違いだということでした。かくして我らが兵団は敵国の真っただ中で取り残され、敵兵に追い詰められたのです。私が彼女を救ったのはその時でした。私が囮になって、敵を引きつけることで、私は彼女を逃すことに成功したのです。その時の恩を彼女は魂にしかと刻み、死後も忘れずにいたから、生まれ変わった後も縁がつながり、二人は再会できたのだ。そう彼女は言っておりました」

 なんてたくましい妄想だろう。彼女は師匠の恋人ではなくて小説家を目指すべきではないか。

「絶対つくり話ですよ、それ。あるいは師匠をからかっているんですよ」

「しかし、どうやら彼女は本気で前世を信じているようだ」

「余計に駄目ですよ。今すぐ連絡を断って、逃げ出すべきです」

「もうOKの返事をしました」

「何をやっているんですか!」

つい感情的になって声を大きくしてしまう。師匠は一瞬ビクリとしたが、意に介さないといった調子で酔漢のような白々しい笑い声を上げた。 ああ、本当にこの人は。こんな人を師匠に持って良かったのか、考え直したくなる。

「まあそんなにかっかしなくて良いじゃありませんか。今の話は全部嘘なんですから」

 目が点になる。

嘘? じゃあ師匠に惚れた可愛い女の子も、前世からの因縁も、作り話なのか。

茫然と師匠の顔を見れば、してやったりといった顔だ。人をうまく騙すと人はこんな顔を浮かべるのか。さすがは師匠。表情ひとつで俺にまた何かを教えてくれる。そう考えて無理に師匠を肯定しようとする自分はまだ混乱しているんだなと思った。

「君は気持ち良いほど騙されてくれますね。その素直さは人が容易に持ちえない宝です」

「師匠こそ人が悪い。分かるでしょう、師匠の言葉に盲従する俺は騙されるしかない」

「盲従しておいて悪いですって。おかしなことを言いますね。そもそも私が女の子に告白されるなんてことがある訳がないでしょう。そこで気付きましょうよ」

「確かにそうですけれど……でもどうしていきなりそんな嘘をついたのですか」

「もちろん、君の小説のためですよ」

 師匠は原稿用紙をとって手の甲で叩く。

「君、人を騙したこと、ないでしょう」

 俺はぎくりとした。

 

 師匠からの講釈がひと段落したので、この日はお開きとなった。

「たまにあなたを師匠にして本当に良かったのか考え直すことがあるんですけどね、きっと100回考え直したって弟子は辞めないと思いますよ、俺は」

「100回なんてすぐですよ。三日に一回考え直したら一年もかかりません」

 師匠はそっけなく言った。

「今日は寒いし、ラーメンでも食べて帰ります」

「師匠の防寒対策はいつもばっちりですね。俺もご一緒しますよ」

「別に無理してついてこなくて良い。ほら、君は明日も授業でしょう。夜更かしはいけませんよ」

 師匠は赤い手袋をはめて、その長い髪ごとマフラーを巻いた。

「何を言ってるんですか。こんな草木も眠る深夜に師匠を、ましてや後輩の女の子を一人で帰す訳にはいきません」

 師匠は少し考えてから、仕方なさそうに笑って

「じゃあ、お願いしますね。先輩」

 と言った。

 部室の明かりを消して寒い廊下に出た。

 

井戸

 男には幼い息子が一人いたから、55日の今日、こいのぼりを軒先に掲げることにした。そのこいのぼりは男の実家の倉庫に眠っていた立派な物で、傷みも少なく、実用に耐えるものだった。

 男は息子を外に呼び出し、一緒にこいのぼりをポールにくくりつけて空に上げる。こいのぼりが泳ぐ空はよく晴れ渡っていて、良い日和だと男は思った。

息子は一見興味深そうにこいのぼりを眺めていたが、胸中では「大人って変なことをするものだな」と白けていた。彼は小学校に上がる前からリアリズムに傾倒していた。三匹の鯉は風がそよぐままに泳いでいたが、ひとたび凪げばしおれてしまう。背後の空は青く晴れ渡っていたが、綺麗過ぎて絵画みたいにつくりものめいていると息子は思った。だが、こいのぼりの腹に描かれた鱗の形は気に入った。最近のめりこんでいるゲームのボスキャラと同じ模様だと思った。

 男は満足げな顔をしてこいのぼりに関するうんちくを話す。

「鯉は滝を登ると龍になるんだ。だから子供が龍みたいに立派な人に育つことを願って、こいのぼりを上げるようになったんだよ」

 男は息子の興味の薄さには気づいていたが、割り切っていた。あくまで子供の成長を願う親の自己満足が重要なのだと考えていた。息子の興味がどこに向こうと親の興味が息子に向いていればきっと悪いことになるまい。

 息子は10分くらいはしげしげとこいのぼりを眺めていたが、義理は果たしたと言わんばかりにそそくさと家へ引っ込んでいった。

 男は、まあこんなものかと思った。

 男は家の中の掃除を始める。時刻は朝の10時。休日とは言え、働き盛りである。リビングの掃除機をかけていると、窓際の日向で昼寝をしている妻が邪魔だった。掃除機の先でつついてやると、「まだ昼ごはんにははやいでしょ。もうちょっと昼寝させて」とむにゃむにゃ見当外れな寝言を言った。男はため息をつく。

 妻の邪魔するエリアの掃除は諦め、掃除機を引きずって子供部屋へ行けば息子はテレビゲームをしている。「掃除機の音がうるさい」と息子は文句を言うが、何を言うか。本来は息子が自分の部屋を掃除すべきなのだ。男は腹立ちを抱え、息子を掃除機で彼の母にしたよりも余計につついてやった。

 息子がしているゲームは男が子供だった頃に流行った有名なRPGのリメイクだった。懐かしげに見ていると、掃除機を動かす手が止まる。口を出したくなる。

「ほら、そこの井戸の中に入ればアイテムがあるぞ」

「分かってるよ。うるさいな」

 息子は父を邪険に扱う。

「俺が子供の頃は井戸の中に入るという行為が衝撃的でな。普段から井戸は地獄に繋がってるなんておばあちゃんに脅されてたもんだから、背徳的な好奇心をそそられたよ」

 息子には「背徳的な」という言葉の意味が分からなかったし、父親の思い出話にも共感できなかった。井戸という物が身近でないし、遠い異国の話されてるように感じた。だから息子は無視してゲームを進めた。

それでも父親はどうにか息子の興味を引きたくて次の話題を考えた。井戸を頼りに過去の記憶を手繰り寄せる。

「そうだ。井戸にはあれがいた。鯉がいたんだよ」

 記憶の糸がほどけ、鮮烈なイメージが頭を駆け巡ると、男の口からそんな一言が漏れた。息子は怪訝そうな顔で父を見る。男は一言一言、いましがた蘇った記憶を踏みしめるように言葉を続けた。でなければ、意味の通らない言葉をまくしたててしまいそうだった。

「おばあちゃん家にあっただろ。今は枯れた井戸が。あれ、俺が子供の頃はまだ枯れてなくて、現役で使ってたんだ。それで、その井戸の中では鯉が泳いでいた」

「嘘だ。鯉が井戸の中にいたら汚いじゃないか」

 息子は簡単に父の言葉を信じない。疑念が生じるほどには父親から騙され慣れていた。父親とはからかいに息子を騙す生き物だと賢しい彼は既に理解していた。

「いいや、井戸を綺麗にするために鯉を泳がすんだよ。井戸の中に入った虫を鯉が食べてくれるから、水は澄んだままに保たれるんだ」

 息子はまだ納得できない。生き物を入れることの汚さを彼は幼くして既に知っている。鯉は井戸で生きていけるのか? 鯉の排泄物を人が飲んでしまうのではないか? 鯉が死んだら、もうその水は飲めないのではないか。

「でも、だったら、その鯉は、最後はどうなっちゃったのさ?」

「逃げて行ったよ」

 息子は、改めていぶかしんだ。深い井戸の底に逃げ場などないように思ったからだ。むろん井戸が地獄に繋がってるはずがないし、鯉が死んだことを地獄に逃げたと言ってオチをつけようものなら、息子は父にブーイングをかましただろう。息子の疑念を察し、男は話を始めた。

「鯉が逃げたその日、大雨が降っていたんだ。とても激しい雨だったなあ。おばあちゃんが『天神様がお怒りだ』と言って仏壇に拝み始めたほどだった。俺は二階の窓から井戸を眺めていた。井戸には屋根も蓋もあったのだけど、激しい雨足はそれらを軽々しく突き破ったんだ。そのまま雨は井戸に流れ込んだ。それこそ滝のようにだ。そうしたら」

 ここまで男が話したところで息子は言葉を被せ、遮った。息子にはオチが分かってしまった。

「つまり、鯉はその、滝のように落ちてくる雨を登って龍になって逃げたんでしょう? やっぱり下らないつくり話じゃないか」

 鯉は滝を登ると龍になる。先ほども聞いた話だ。つまり地獄じゃなくて天に逃げたという話だったのだ。息子は可愛げなく鼻で笑う。果たして男がつけようとした話のオチは息子の言った通りだった。

オチを先に言われた男は息子の生意気さに腹を立てた。「いつまでもゲームやってるな。そろそろやめろ」とぶすっと言って彼は子供部屋を出ていく。息子は気にせずゲームの続きをやり始める。

 リビングに戻ると、男の足音の騒々しさに妻は目を覚ました。ふと彼女は窓から見えるこいのぼりを寝ぼけ眼で捕えると、「龍って食べたら鯉と同じ味がするのかしら」と言った。男は笑った。それで冷静になってみると、まああんなものか、と思い直した。

 今日のような五月晴れの下では、息子は想像できないのだろう。他人に想像を超えることを上手く伝える技術が男にはない。彼はもどかしく思った。男の眼には今も、龍が花火のようにまっすぐ天へ飛び上がって暗雲に雷の花を轟かせたあの日の景色が焼きついているというのに。

10年前から戻ってくる話

ある日、世界が10年ほど時間を遡った。

「人類が人生をやり直したいって後悔する奴らばかりだから、神様ちょっと頑張っちゃったよ」

 そんな声が聞こえた気がした。

 気付くと大学の後輩の家で力尽きるように眠っていたはずの自分はベッドの上で布団に包まれていることに気付く。それは昔実家にあった二段ベッドで、僕は上のベッドに寝ている。二段ベッドが家に来た日、兄貴は当然とばかりに上のベッドで寝たがったんだけど、僕は早い者勝ちと言わんばかりに先に上で寝た。喧嘩っ早い兄貴のことだから、何か文句を言ってくるかなって覚悟していたんだけど、不思議と兄貴は何も言わなかった。下のベッドで人が身動きする気配がする。電燈のひもを引っ張って下を覗きこむと、幼い顔した兄がきょとんとした顔で身を起していた。兄貴はいつも通りの皮肉めいた笑いを浮かべて

「おい、お前も10年後から戻ってきたのか?」

 と言った。僕はあいまいな笑みを返す。10年後から帰ってきても僕らの会話はぎこちないままだった。兄貴はベッドから這い出ると「親父たちの顔見てくる」と言って部屋を出て行った。そういえば10年前だと弟たちは小学生と園児で両親と同じ部屋で寝てるんだっけ。兄貴が両親の寝室へどすどすと歩いていく音が響く。枕元に置いた銀色のデジタル時計を見ると深夜の3時だった。たぶんお父さんたちはまだ寝ているだろう。兄貴はそれを暴力的に起こすのだ。

 頬をさすってみると、つるつるする。いつもなら毎朝ひげそりが必要なほどじょりじょりしてたのに。

 ベッドに倒れこんで、電燈に照らされた白い天井を見上げながら、明日はさすがに大学休校かなあって考えた。しかし僕は今小学生の体をしているって思いだして、笑ってしまう。じゃあ小学校に通えばいいんだろうか。それもうまくない気がする。世界中の人が10年後から戻ってきたなら、みんな僕がとっくに小学校を卒業して大学生にまでなっているって知っているだろうから。ならこれまで通り大学へ通うのか? 11歳の体で? それはいいのか? 未発達な体で一人暮らしをして大学に通い、深夜まで勉強したり研究をしたりする生活は現実的じゃないような気がした。じゃあ、どうなるんだ? わかんない。

 そこへ父親がどしどし音を立ててやってきた。

「おい、10年後から戻ってきたのか?」

「そうかも」

 あいまいな笑みを浮かべてそう返すと、父親は鼻で笑う。親子そろって、笑顔が下手なのだ。

「顔洗って出かける準備しろ」

 と父は言う。

「どこ行くの?」

「じいちゃんの家」

 僕は急いでベッドから飛び出た。そうだった。なぜ気付かなかったのだろう。10年前ならば、じいちゃんがまだ生きてるかもしれないじゃないか!

 僕はドキドキしながら焦るように服を着替えようと箪笥を開けた。兄貴も部屋に戻ってくる。

「車、俺が運転するから」

 と兄貴が言うと父は

「そんなちっちぇえ体で運転なんかできるか」

 と兄貴の頭を小突いた。その言葉に僕はハッとして服を探すのをやめ、脇に押しやっていた小さいサイズの服を選んで着た。

 着替えを終えて部屋の電気を消そうと電燈のひもに手を伸ばす。すると兄貴からちょっと待ってと制止の声がかかる。

「なあ、お前、俺の携帯電話知らない?」

10年後の世界にあると思うよ」

 僕はひもを引っ張った。