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井戸

 男には幼い息子が一人いたから、55日の今日、こいのぼりを軒先に掲げることにした。そのこいのぼりは男の実家の倉庫に眠っていた立派な物で、傷みも少なく、実用に耐えるものだった。

 男は息子を外に呼び出し、一緒にこいのぼりをポールにくくりつけて空に上げる。こいのぼりが泳ぐ空はよく晴れ渡っていて、良い日和だと男は思った。

息子は一見興味深そうにこいのぼりを眺めていたが、胸中では「大人って変なことをするものだな」と白けていた。彼は小学校に上がる前からリアリズムに傾倒していた。三匹の鯉は風がそよぐままに泳いでいたが、ひとたび凪げばしおれてしまう。背後の空は青く晴れ渡っていたが、綺麗過ぎて絵画みたいにつくりものめいていると息子は思った。だが、こいのぼりの腹に描かれた鱗の形は気に入った。最近のめりこんでいるゲームのボスキャラと同じ模様だと思った。

 男は満足げな顔をしてこいのぼりに関するうんちくを話す。

「鯉は滝を登ると龍になるんだ。だから子供が龍みたいに立派な人に育つことを願って、こいのぼりを上げるようになったんだよ」

 男は息子の興味の薄さには気づいていたが、割り切っていた。あくまで子供の成長を願う親の自己満足が重要なのだと考えていた。息子の興味がどこに向こうと親の興味が息子に向いていればきっと悪いことになるまい。

 息子は10分くらいはしげしげとこいのぼりを眺めていたが、義理は果たしたと言わんばかりにそそくさと家へ引っ込んでいった。

 男は、まあこんなものかと思った。

 男は家の中の掃除を始める。時刻は朝の10時。休日とは言え、働き盛りである。リビングの掃除機をかけていると、窓際の日向で昼寝をしている妻が邪魔だった。掃除機の先でつついてやると、「まだ昼ごはんにははやいでしょ。もうちょっと昼寝させて」とむにゃむにゃ見当外れな寝言を言った。男はため息をつく。

 妻の邪魔するエリアの掃除は諦め、掃除機を引きずって子供部屋へ行けば息子はテレビゲームをしている。「掃除機の音がうるさい」と息子は文句を言うが、何を言うか。本来は息子が自分の部屋を掃除すべきなのだ。男は腹立ちを抱え、息子を掃除機で彼の母にしたよりも余計につついてやった。

 息子がしているゲームは男が子供だった頃に流行った有名なRPGのリメイクだった。懐かしげに見ていると、掃除機を動かす手が止まる。口を出したくなる。

「ほら、そこの井戸の中に入ればアイテムがあるぞ」

「分かってるよ。うるさいな」

 息子は父を邪険に扱う。

「俺が子供の頃は井戸の中に入るという行為が衝撃的でな。普段から井戸は地獄に繋がってるなんておばあちゃんに脅されてたもんだから、背徳的な好奇心をそそられたよ」

 息子には「背徳的な」という言葉の意味が分からなかったし、父親の思い出話にも共感できなかった。井戸という物が身近でないし、遠い異国の話されてるように感じた。だから息子は無視してゲームを進めた。

それでも父親はどうにか息子の興味を引きたくて次の話題を考えた。井戸を頼りに過去の記憶を手繰り寄せる。

「そうだ。井戸にはあれがいた。鯉がいたんだよ」

 記憶の糸がほどけ、鮮烈なイメージが頭を駆け巡ると、男の口からそんな一言が漏れた。息子は怪訝そうな顔で父を見る。男は一言一言、いましがた蘇った記憶を踏みしめるように言葉を続けた。でなければ、意味の通らない言葉をまくしたててしまいそうだった。

「おばあちゃん家にあっただろ。今は枯れた井戸が。あれ、俺が子供の頃はまだ枯れてなくて、現役で使ってたんだ。それで、その井戸の中では鯉が泳いでいた」

「嘘だ。鯉が井戸の中にいたら汚いじゃないか」

 息子は簡単に父の言葉を信じない。疑念が生じるほどには父親から騙され慣れていた。父親とはからかいに息子を騙す生き物だと賢しい彼は既に理解していた。

「いいや、井戸を綺麗にするために鯉を泳がすんだよ。井戸の中に入った虫を鯉が食べてくれるから、水は澄んだままに保たれるんだ」

 息子はまだ納得できない。生き物を入れることの汚さを彼は幼くして既に知っている。鯉は井戸で生きていけるのか? 鯉の排泄物を人が飲んでしまうのではないか? 鯉が死んだら、もうその水は飲めないのではないか。

「でも、だったら、その鯉は、最後はどうなっちゃったのさ?」

「逃げて行ったよ」

 息子は、改めていぶかしんだ。深い井戸の底に逃げ場などないように思ったからだ。むろん井戸が地獄に繋がってるはずがないし、鯉が死んだことを地獄に逃げたと言ってオチをつけようものなら、息子は父にブーイングをかましただろう。息子の疑念を察し、男は話を始めた。

「鯉が逃げたその日、大雨が降っていたんだ。とても激しい雨だったなあ。おばあちゃんが『天神様がお怒りだ』と言って仏壇に拝み始めたほどだった。俺は二階の窓から井戸を眺めていた。井戸には屋根も蓋もあったのだけど、激しい雨足はそれらを軽々しく突き破ったんだ。そのまま雨は井戸に流れ込んだ。それこそ滝のようにだ。そうしたら」

 ここまで男が話したところで息子は言葉を被せ、遮った。息子にはオチが分かってしまった。

「つまり、鯉はその、滝のように落ちてくる雨を登って龍になって逃げたんでしょう? やっぱり下らないつくり話じゃないか」

 鯉は滝を登ると龍になる。先ほども聞いた話だ。つまり地獄じゃなくて天に逃げたという話だったのだ。息子は可愛げなく鼻で笑う。果たして男がつけようとした話のオチは息子の言った通りだった。

オチを先に言われた男は息子の生意気さに腹を立てた。「いつまでもゲームやってるな。そろそろやめろ」とぶすっと言って彼は子供部屋を出ていく。息子は気にせずゲームの続きをやり始める。

 リビングに戻ると、男の足音の騒々しさに妻は目を覚ました。ふと彼女は窓から見えるこいのぼりを寝ぼけ眼で捕えると、「龍って食べたら鯉と同じ味がするのかしら」と言った。男は笑った。それで冷静になってみると、まああんなものか、と思い直した。

 今日のような五月晴れの下では、息子は想像できないのだろう。他人に想像を超えることを上手く伝える技術が男にはない。彼はもどかしく思った。男の眼には今も、龍が花火のようにまっすぐ天へ飛び上がって暗雲に雷の花を轟かせたあの日の景色が焼きついているというのに。