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私のブログ。

このブログを書いているのは誰かな? せーの、私だー!

エルマー・ヴァン・デル・ライデンからの手紙

小説

 夕暮れの街を駆け抜けるあの電車に大槻は揺られている。大槻にとって電車は実に良いものだった。ただ乗っているだけでどこかへ運んでくれる。切符を買って乗り込んだら、後は目的地に着くまで座っていればいいのだ。身体を意識的に動かす必要はなく、植物みたいに椅子に根を張るのだった。

 やあ窓の景色を見てみれば草木が生えて、電車が通る勢いに揺さぶられている。彼らは何処にも行けないけれど、大槻は何処にでも行けるのだ。電車の許す限りではあるけれど。

 そんな調子で大槻がボーっと車窓から見える景色が流れていくのを見ていると、電車のスピードが緩まって、駅に停まった。乗客が乗り込んできて、途端に身をすくめた。黄色いバッグをかついだ中学生や、丸刈りの男子高校生、紫の髪をしたおばさんといった連中が混ざりあって電車内に乱立するのを見ると、落ち着いてられなくなったのだ。

 大槻は心を鎮めようと、膝の上に抱えたカバンの中からエルマー・ヴァン・デル・ライデン宛てに送られた封筒を取り出し、そこから何枚かの便箋を取り出した。そこには小さな丸い文字で短い物語が書かれている。

 大槻はその物語に目を落とし、これで何度目になるか分からない読書を再び始める。

 

 カミーユは朝目を覚ますと自分の左胸が磁石になっているのに気付いた。今まで兆候はあったが微弱な磁力だったので気のせいだと思っていた。だけど今朝に限っては、認めざるを得ないほど強力になっていた――そう、くっついてとれなかったのだ。彼女のパパがお節介にもくれた毎朝やかましい目覚まし時計が張りついて、心臓の鼓動と一緒に振動しているのだ。お陰ですっかり目が覚めてしまった。睡眠を何よりも大切な時間だとしていたカミーユにとって、目覚ましごときに起こされるのは屈辱的だった。

力を入れて引っ張って、ようやく目覚まし時計を取り外して時間を見ると、彼女は大学の授業が既に始まった後だと気付いた。

 カミーユは自分の身に今起きていることが、いつか読んだ小説に出てくるグレゴール・ザムザの運命に似ているぞと思った。ザムザは毒虫になってなお、仕事を寝坊したことに焦り、毒虫の姿で出勤しようとしていたのだ。そしてカミーユは磁石人間となった。ザムザを反面教師にすれば、カミーユは授業に行かずに自分の身体に起こった異変について案ずるべきなのではないかと彼女は思った。

 ベッドから半分だけ身体を這いだし、ベッドの隣にあったスチールの机から、張り付いていた磁石を一つだけとって、自らの左胸へ近づけた。すると、カミーユの左胸は磁石のS極に引力を、N極に対して反発を示した。

「南極へ行ってうつ伏せになればあたし宙に浮くかもしれないわ」地球が巨大な磁石であることを思い出して彼女は独り言を言った。

「さあて。磁力が発生しているということは、その発生源は大抵の場合、電子の運動に決まっているわ。一口に電子の運動と言っても、並進運動、熱振動、スピン運動の少なくとも三種類くらいあるかしら。果たしてどれでしょうね。

電子の並進運動はつまり電流こと。だけど私の身体の中で電流が流れているとは考えにくいのよね。こんな時テスタがあれば私の中の電流値を調べられるけれど、気の利かない私の引き出しにはボールペンとかスケッチブックしか入ってない。まあとにかく、電流は磁場発生源の候補から外しても良いでしょう。左胸だけに電流が流れていると考えるのも不自然だしね。

次に熱振動だけど、そういえば電磁気学の講義で熱振動による磁場の発生について習った覚えがないわ。いったいどうしてかしら。でも素直にフレミングの法則を使ったら、引っ張る力と追いやる力が交互に生じる磁場になるだろうことは分かるのよね」カミーユは左手をフレミングのそれの形にして、一定のリズムでひっくり返したり戻したりしていた。「でも私の愛すべき目覚まし時計は私が引っぺがすまでくっついていたわ。ということは力の向きは一定だし、熱振動説はやはり却下ね。とすると残るは本命のスピン運動だわ。磁石が磁力を生み出す根源こそスピン運動なのよ。スピン運動が磁力となるのは、全部の電子が同じ向きにスピンしなきゃいけないけれど、磁石の結晶ってそうなるような形を初めからしているのよね。つまり私の左胸も何かの拍子にそういう、スピンが同じ向きになるような形に、なっているということなのかしら。ああ、後で科学の本をひっぱりだして、磁石の結晶構造と私の左胸の結晶構造を比べてみようかな」

 その後もカミーユはベッドの上でうんうん唸っていたけれど、しばらくすると大きなあくびをして布団に再び潜って二度寝を始めた。

 もし君がカミーユに「磁石になった左胸の謎はもう良いのかい?」と聞けたなら、彼女は眠りを妨げられた時の不機嫌顔でこう言うだろう。

「睡眠を我慢してまで考える価値のない謎だって気付いちゃったの」

 

 ちょうど読み終わったところで電車は駅に停車した。新たな乗客が乗ってくる。

「この席空いてますか?」

 顔を上げると眼鏡をかけた若い女性が大槻の隣の席を指さし立っていた。黒い髪をポニーテールにして、服は白くてひらひらしたフリルのついたシャツに青いスカートを身に付けている。大槻が「空いている」と答えると女性はホッとした顔をしてそこに座った。

「ああ本当に良かった。これで空いていないと答えられたらどうしようかと思いました。今日は嫌なことがたくさんあって弱気になっていましたの。ねえお兄さん、ちょっと聞いてくれませんか」

 女性はまくしたてるように口を開く。戸惑う大槻の無言を肯定と捉えたのか、一気にしゃべり出した。

「今朝はどうしたことか目覚まし時計が鳴らなかったんです。そのせいで授業に遅刻しましてね。私、大学の法学科に通ってますの。で、遅刻した授業というのが厳しい先生の担当で、遅刻した生徒は欠席扱いにするばかりか、授業で配られる資料すら渡さないという性根の腐った野郎でございまして、私は大変困ってしまいましたの。だから私、クラスメイトに頭を下げて資料のコピーを頼みましたわ。そのコピーを頼んだ人たちというのが私とはそれほど仲のよくないグループの人たちでして、残念なことにクラスで会話をしたことのあるのがその人たちしかいらっしゃらなかったの。別に、私に友達がいない訳ではありませんよ。たまたまその授業に友達がいなかっただけですわ。

ともかく、その人たちって軽薄で図々しいの。曲がりなりにも資料をコピーしてくれた人たちを悪しざまに言うのもはしたないことではありますが、それを承知でもう一度言わせてください。その人たちったら本当に軽薄で図々しいの。私、彼ら五人分のお昼ご飯をおごらされたわ! 一人分の資料をコピーするのになんで五人分もおごらなきゃいけないの。しかもファミレスで下らない話に付き合わされたわ。三時間もよ。ドリンクバーにデザートまで頼みやがりましてぺちゃくちゃと三時間しゃべりつづけたのよあの人たちったら。いやね、私だって最初はがまんしましたよ。彼らの下種な話題にはついていけなくって、でも恩義があるから無下にもできず愛想笑いでごまかしたのだけど、それをあの軽薄な女『大八木さんってノリわるーい』ですって! ああ思い出しただけで腹が立つ。その後血液型の話になってね。やっぱり軽薄な顔した男の一人が『大八木って何型なの?』だって。呼び捨てで呼びやがったのよ。正直に『AB型です』って答えたらさ、『そこは新潟ですってボケるところだよ新潟県民ならさー』と言うのよ? 『は?』と声が漏れそうになったわよ。どうしてそんな詰まらないボケをしなきゃならないのよ。ボケてるのはそっちの頭じゃないの。その上『やっぱAB型は自分勝手で空気読めないよねえ』だってさ。もう本当『は?』よね。何。血液型占いなんて非科学的なこと信じてるの? 根拠のないエセ科学を振りかざして人のこと貶めちゃってさ。そう言うのを許されない悪って言うのよ。

まったくそもそも血液型って選択肢が最悪よね。レディに血液型を聞くくらいなら指輪のサイズでも聞きなさいよ。それがロマンチックで実に良いわ。まあ聞かれてもあんな男に教えたりはしないけどね」

 女性の話が一息ついたとこで電車は再び駅に停まった。

「僕、この駅で降りるんで」と大槻が言うと、女性は我に返ったような顔をして「ああ、私ったら長々としゃべっちゃってごめんなさい」と言って恥ずかしそうな顔をした。「でも、聞いてくれてありがとう」

 

 一期一会の女性の話を聞いて、大槻の心には未知との遭遇を果たしたような好奇心があった。人間は見知らぬ人にだってああやってペラペラとしゃべることができるのだと、初めて気付いたのだ。もし大槻が今からそこいらにいる暇そうな人物を捕まえて話をするとしたら、どんな話をするだろう。

「聞いてくれ。僕は本当に怠け者な人間で、人にあれやれこれやれと命令されなきゃ自分からは動けない駄目人間だ。幼い頃からそうだったし、この怠け癖は生来のものなのだろう。小学生の頃は宿題だって母に怒られなかったらやらなかったし、ご飯だって食えと言われなければ食べなかった。同い年の人たちが当たり前のように行使している自主性が僕には欠けていたのだ。そんな僕に友人たちは愛想を尽かして離れていった。これで両親が死んでしまったらお前は生きていけないじゃないかと両親からいつも心配されていた。

そして今、心配が現実のものになっちまったのだ。ひとりぼっちになってしまった僕はろくな食事をしなかったし、洗濯物は溜まる一方。着ているシャツも臭い。その上部屋は埃だらけだ。もうこれは死んだ方が良いなと思うのだけど、自主性がない僕には自殺することすらやる気が出ない。

 そんな僕に先日一通の封筒が届いたのだ。正確にはエルマー・ヴァン・デル・ライデン宛てにだったのだけれど。もちろん僕の家にはそんな外国人は住んでいない。しかし住所は確かに僕の家となっていた。これは不思議だなと思って封筒を開いて見ると中には短い小説と一通の手紙があった。

『突然のお手紙申し訳ありません。でたらめな住所を書いて闇雲にお手紙を出させていただきました。当然エルマーさんなる人物はいらっしゃらないのでしょうね。分かっています。そんな人物がいたら良いなあと思うのですが、それはただの願望です。それでも私は、私の小説を誰かに読んでもらいたかったのです。そしてあわよくば感想をいただきたい。

お手数ですが同封した小説を読んでもらえると嬉しいです。初めて書いたので、めちゃくちゃで、起承転結もなっていない、価値のない文章かもしれません。つまらなかったの一言でも構いません。屑小説と罵っても良いです。どんな評価も受け入れ、歓迎します。どうか正直な感想を私にください。よろしくお願いします。』

 手紙の最後には送り主の名前、県外の病院の名前と、入院病棟の部屋番号が書いてあった。

 この手紙は僕へ下った久々の命令だ。僕は何としても手紙の送り主へ感想を届けねばならないと思った。そのためにまずペンと便箋を買ったし、その病院へ行くための汽車を調べもした。人に会うために身なりを清潔にして、ひげを剃ったよ。ああ、僕がペンと便箋を買ったのはね、直接感想を言う勇気がなかったからさ。病院まで行ったら看護婦さんに託して渡してもらうよ。もちろん送り主の名前はエルマー・ヴァン・デル・ライデンさ。今から届けに行く」

 大槻は頭の中でそんなセリフを反芻していると心が躍って、病院に向かう足取りが跳ねるようになった。もちろんその辺の見知らぬ人を捕まえて上記のようなセリフを言ったりなどしない。大槻にとっては頭の中で言葉を発するだけで十分だったのだ。

 大槻は病院に着くと案内板に従って、入院病棟へ一直線に向かおうと思った。だけどちょっと思い直して一階のロビーに座った。カバンから渡す予定の封筒を取り出すと封をしてあったシールを丁寧にはがして中に入れてあった手紙を取り出し、その最後の余白にこう書き足した。

「追伸。これはちょっとした雑談ですので気楽にお答えください。あなたの指輪のサイズはいくつでしょうか?」

 大槻は満足した表情で手紙を封筒にしまい直すと、丁寧に封をし直し、入院病棟へ向かった。

 彼は気付いていなかったが、このささやかな書き加えこそ彼が初めて為した自主的な行為だったのだ。