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風立ちぬを観た。ネタバレあり

 昨日ジブリの最新アニメ映画『風立ちぬ』を見たんですよ。

 すっごく良かった!

 前半の大仰な映像表現は迫力がありました。夢のシーンの壮大さ、地震のシーンの恐ろしさと言ったらもうすごい。

 後半の落ち付いた展開も良かった。ところどころ堀辰雄の小説を思い出させて、二重に涙を誘った。あれはずるい。

 

 

 零戦をつくった人物の半生を描いていることから、戦争物の映画に思いがちですが、実際はそうではありません。自身の夢のために人殺しの道具をつくっていることについて主人公が葛藤しているシーンは作中のどこにもありません。*1

 戦争映画じゃないのなら、この映画の主題は何かって疑問に思うかもしれませんが、これは簡単です。タイトルにあるじゃないですか。「風立ちぬ」です。「風立ちぬ。いざ生きめやも」*2です。意味は「風が立った。さあ生きようじゃないか」とも「風が立った。生きるべきか、いや生きるのをあきらめるべきだ」と反語表現に取ることもできます。作中で主人公とヒロインが何度も口ずさんだ、この作品の象徴的言葉です。果たして彼らはどちらの意味でこの言葉を使っていたのでしょう。

 この映画は、主人公の堀越二郎の「飛行機制作」と「愛する女性と過ごす時間」の二つの場面で進行していきました。そして来るラストシーンにおいて二つは交わります。主人公の夢の世界ではいくつもの飛行機の残骸が堕ちており、主人公はそれを「地獄かと思った」と表現します。この時、戦争は終わっており、主人公がつくった飛行機は一台も戻ってこなかった、主人公が愛した女性は逝ってしまった。風が吹き去った後のように主人公には何も残っていない。でも主人公の愛する菜穂子は「生きて」と言うのです。「風のような女性だった」と表現された菜穂子。その菜穂子が吹き去るときに「生きて」と言ったのです。風立ちぬ、いざ生きめやも。もうどちらの意味で使われているのか、分かりますね。

 「生きて」というのは単純に主人公が生き長らえるという意味にとどまらないと思います。「創造的人生の持ち時間は10年間」。つくった飛行機が一台も戻らなくてなお、この創造的人生を生きてほしいと言っているのです。主人公の10年は過ぎましたが、この後も主人公は飛行機をつくり続けたことが伺えます。

 

 

*1:考えてみれば、国中が「戦争万歳」と言ってる時代に戦争に疑問を呈することができる人は少数派です。下手に主人公に反戦思想を持たせてはリアリティが損なわれるため、こういう映画になったんじゃないでしょうか

*2:ヴァレリーがこの詩をつくり、堀辰雄がこう訳しました。