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私のブログ。

このブログを書いているのは誰かな? せーの、私だー!

(前半から読みましょう)黒髪ドール後半

 点滴スタンドを引きずりながらエレベータホールについて、上行きのボタンを押す。目指すは屋上だ。

「こっちの方が早いよ」

 そう言って幽霊が指さしたのは病院関係者用のエレベータだ。医者が看護師が患者とかベッドを搬送する時に使っている。確かにそのエレベータは来るのが早いが、使用には暗証番号の入力が必要だった。

「暗証番号は4657よ」

「なんで知っているんだ」

「看護婦さんが打ってたのを何度も見たから」

「お前は本当に病院通だなあ」

 言われた通りの番号を打つと、本当にエレベータの扉が開いた。誰かに見付からないうちに素早く入る。行き先は最上階にした。展望室があって、見晴らしが良いだろうと思ったのだ。

 屋上からは海が見えた。幽霊は楽しそうに海を眺めていて、船とか、雲とかを指さしている。僕は幽霊が白い袖なしのワンピースを着ていることに気がついた。なんだか夏みたいな格好だ。いや、夏なのだろう。ずっと空調の効いた病院から出ずにいたから、夏だという実感がなかった。ああ、夏だと思うと、見えているものが少し違う姿に変わっていくぞ。夏の海は本当に青くて特別に見える。遠くで青空と一本の水平線で区切られている。砂浜に波が打ち寄せている。僕はあそこには行けない。行けないのだ。

「クソ。なんで僕ばかりこんな目に会うんだよ」

 幽霊が僕を冷ややかな目で見ている。

「何よ。悲劇のヒロインみたいな顔しちゃって。君が今こうして病院に閉じ込められているのは全部君のためなんだからね。君が早く病気を治して普通の生活に戻るためのものなんだからね。その悲しい物語もいつかは終わって、君は舞台を降り、モブキャラに戻るのよ」

 分かっている。分かっているさ。

「あ、ヘリコプター」

 幽霊が指をさした先に、いつか音に聞こえたドクターヘリが見えた。病院の隣の棟の屋上に止まっている。

「乗ってみたいのか?」

 どこか羨ましげに幽霊はヘリを見つめて、首を大きく縦に振った。

「幽霊なんだからヘリに乗らなくても浮けるだろう」

 点滴から大きな警報音が鳴り響いた。バッテリーが切れたのだ。点滴の動きは止まり、点滴針から赤い血がチューブに逆流し始めていた。

「違うよ。全然違うよ」

 幽霊は大まじめに首を振り、こちらに言い聞かせるように言う。

「私は病院の外に出れないけれど、病院の中でしか飛べないけれど、ヘリコプターなら病院の外に飛んでいけるもの。あの水平線にだって飛んでいけるもの」

 散歩は終わりだ。僕は病室に戻ることにした。

 物語を終わらせないといけない。

 

 病室のテレビ画面に、美味しそうな料理が映し出される。「ハイ。カンセイデス」「ワア。オイシソウデスネ、センセイ」僕はテレビ画面を殴り割った。料理番組は沈黙して、テレビ画面のガラスが手に刺さる。血はぽたぽた滴り落ちるけれど、痛くはなかった。点滴の針をむしり取る。

「なあ、ドクターヘリは病院の範囲内か」

「グレーゾーンね」

「ヘリコプターの場所まで案内できるか?」

「任せてよ。何年病院にいると思ってるの」

 本当に何年間病院に住みついているのか聞きたい気がしたけど、やめた。女性に年齢を聞いてはいけないのと同じで、聞くのがはばかられた。幽霊が先んじて僕を先導してくれる。辺りは夕焼けのオレンジ色になっていて、所々でまだらのように夜の薄暗い藍色が混じっている。奇妙に静かだった。医者も看護師も、他の患者もいない。ただ、半透明の暗い影が行き交っていた。

「逢魔時だな」

と僕は思った。

 黒い影が行き交う道を髪の長い幽霊がずんずん先に進んでいく。僕は慌てて後を追いかけた。手から滴り落ちた血が、点々と僕の通った後に落ちていく。

「その血が帰りの道しるべになるよ。お化けは血を流さないからね」

 そう黒髪の幽霊が言うのを聞いて「ああ、僕はヘリには乗れないんだな」と思った。それでも僕は彼女に着いていった。

「なあ、この黒い影たちはみんな病院で死んだのか」

「そうね」

「死んだ後もここにとどまり続けるのか」

「彼らは病院以外の場所のこと、何も知らないもの」

 僕らはどこをどう歩いていったか分からないくらい歩いた。病院の中なのに別の世界を歩いているみたいだ。階段を下りては歩き、また階段を上った。そして彼女は一つの扉の前で立ち止った。

「この扉、私には開けられないのよ」

 扉には暗証番号がついていた。

「あなたが、開けてよ」

 僕は言われるままに番号を入力した。

 扉が開くと、夏が流れ混んできた。病院が外とつながったんだ。セミの声。海の匂い。風に幽霊の黒髪とワンピースのすそがはためく。僕らは外へ進みだす。日は海に沈んで空は藍色に染まっていた。赤いヘリポートの上にドクターヘリはあった。オレンジと白で塗られた機体。登頂部に付けられた二本のプロペラは風にあおられゆっくりと回転している。幽霊は嬉しそうに、手を広げてくるくる周りながらヘリに近寄っていく。

 瞬きのうちに幽霊はヘリの操縦席に乗りこんでいた。ああ、彼女は今飛び立とうとしている。病院から解き放たれて、あの空の向こうのどこまでも飛んでいくんだ。

「なあ、ヘリの操縦の仕方が分かるのか?」

「あなたよりは分かるわよ」

「なんだったら一緒に着いていってやろうか」

 すがるような声で僕は言う。僕も行きたかった。あの空の向こうまで飛んで行きたかった。テレビを殴った拳の血は止まっている。もう道しるべはつくられなかった。

幽霊はふっとヘリの操縦席から消えて、気付くと僕の目の前にいる。

「だーめ」

 幽霊は笑顔で言って、髪の毛を邪魔そうにかき分けた。

「なんでだよ。僕は役に立つぞ。邪魔はしないぞ」

「君はまだ生きてるんだよ。これから病気を治して、普通の人みたいに遊んで勉強してお金を稼いでみんなで笑えるんだよ」

「違うよ。僕の物語はこれで終わりだ。物語の結末のその後を考えたことはあるか? 物語の主人公は物語が終わった後も波乱万丈な人生を送って行くと思うか? でもさ、もしそうならその出来事こそ物語になっていなきゃおかしいだろう。物語の主人公の人生に、物語以上の出来事は起こりっこないんだ。つまりさ、僕は病気に伏して気が狂うような物語を送ってきた。だからたとえこの先病気が治って普通の人生を送れるとしても、病気に伏したこと以上の出来事は起こりっこないんだ。辛い記憶を上書きできなくて、一生トラウマに囚われた人生を送るんだ。そんなの死んだも同然だ! 連れてけよ! こんな幻覚の幽霊にすがっちまうような歪んだヤツはあの空の向こうまで連れていっちまえ!」

「それでも、連れていかないよ」

 幽霊は毅然として拒絶した。

「ねえ、私さ、生まれ変わったら桃子って名前になりたかったんだよね。桃って仙人が食べる果物じゃん。あと、百と書いて『もも』とも読めるから来世は百歳まで生きるぞって願掛けでね。そんな風に死んで幽霊になってからずっと生まれ変わった後のこと考えててさ、ちょっと馬鹿みたいだよね。でも何年も病院に縛られてて、何年も外に出られなくて、流石に生まれ変わるのは無理かなって諦めてたんだよ。だから君には本当に君には感謝している。君の物語は、私が終わらせないよ」

 そう言って幽霊は、その長い髪の毛を一本抜いた。彼女が命と言った綺麗な髪だ。その髪の毛は長くて、本当に長くてどこまでも伸びていた。彼女は僕の左手をとって、髪の毛の端を僕の小指に結んだ。もう一方の端を幽霊は片手で器用に自分の指に結び付ける。

「じゃーん、私たちはいま命の絆で結ばれました」

 そう言って彼女は微笑む。

「これが結ばれている限り、私たちはきっとまた会えるよ。次に会えた時が物語の第二部のスタートだからね」

 そう言うと彼女はすっと僕の前から消えて、いつの間にかヘリのコクピットに乗っていた。プロペラが周り出す。エンジンの起動音で空気が震えた。ヘリが宙に浮く。海に向かって、飛び出していく。

 そこまで見届けて、僕はようやくやってきた貧血に視界がブラックアウトして倒れ込んだ。ヘリの飛び立つ音だけが聴こえる。女の子がヘリを操縦するのってなんだかミスマッチでおかしいなあと最後に思った。

 

 目が覚めると病室のベッドにいた。テレビ画面は割れていなかったし、点滴針は腕に刺さったままだ。何か夢を見ていた気がする。

 しばらくてして担当医がやってきた。

「今日のお昼からご飯食べていいよ。食べてみて何ともなかったらすぐ退院できるからね」

とだけ言って、医者は忙しそうにすぐ出ていった。

 僕は釈然としない気持ちになりつつも、お昼ごはんを少し楽しみに思った。病院の窓から空を見上げた。