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私のブログ。

このブログを書いているのは誰かな? せーの、私だー!

燃える小説

小説

 夕暮れ時の街に木枯らしが吹き、道路に散らばった銀杏の葉をカサカサ言わせる。歩行者に踏みつぶされた銀杏の実が異臭をまきちらし、通る人の顔をしかめさせた。だがこの道に這いつくばるN君の姿は通行人のしかめ顔を更に苦いものにした。

「N君、いったい何をやっているんだ」

 本屋で買ってきたと思しき小説のたくさん入った紙袋を脇に置き、カバンいっぱい銀杏を詰め込んだN君は僕に気付くと暗い笑顔を向けた。髭も髪も伸び放題だった。薄汚い服からは、出会ったばかりの頃のパリッとした服をお洒落に着こなしていた面影はうかがえない。「ディックは波に乗った文章を書くから好きなんだ」。サークルの新入生歓迎会で朗々とアメリカの作家の良し悪しを語り、男女を問わず魅了していた彼と、本当に同一人物なのだろうか。

「今日の夕ご飯を集めていたんだよ。おはずかしながら、お金が無くてね」

 そんなにたくさん本を買わなければいくらでも好きなものを食べれるだろう、なんてことは言っても無駄である。彼にとって生きることは本を買うことと同義であり、買えなければ死んでしまうのだ。さながら麻薬中毒患者みたいだ。薄気味悪い。華のある人生を送っていた彼がなんで落ちぶれてしまったかって? 「僕はSさんと出会うために生きていたんだ」。まだN君が本に憑かれていなかった頃、彼にはSという恋人がいたんだ。ここで察しの良いヤツは分かっただろうが、つまり彼を狂わせたのは女だ。ありがちな話だろう。「これまでの僕の人生は本を読むためにあった。でも彼女に比べたら小説なんてクソみたいなものさ。僕はこれからの一生を彼女のために費やすよ」。N君とSが別れたのはその一カ月後である。そしてその翌日にはSは俺の恋人になった。

 およそどんな男でも、最初にできた恋人に永遠の関係性を信じるものだ。だが本当にそうなるのは稀有な例である。逆に言えばN君のような哀れな男はこの世にたくさんいるのであるが、大抵は失恋の傷を背負いながらも立ち直っていく。だがN君が立ち直るにはプライドが高かった。「僕は彼女と小説のどちらかを選ばなければならなかった。僕は苦悩に苦悩を重ねた末、小説を選んだのだ」とN君は言った。N君の中では、N君がSにふられたのではなく、N君がSを選ばなかったということになった。そうでなくては彼は心を安寧に保つことはできなかったのだ。それでN君は一層小説を買い漁るようになった。食費も削ってまでして本を買っていることは、こけた頬と野草を食べるために拾い集めるみすぼらしい姿で分かった。

「Sを頼んだよ」。Sを奪ったことで一発殴られるかなと覚悟していたが、そのようなことは一度もなかった。N君はN君の中の事実を崩さないために、俺のことは間男ではなく、自分の代わりに愛すべき人を守ってくれるナイトだと見なしたらしい。俺がSと付き合ってからも慣れ慣れしく話かけてくるN君が、俺はとても気味悪かった。

「仕方ないから、俺のおごりで飯をつくってやるよ」

 そう言うとN君は目を輝かして頷いた。近くのスーパーで食材を買いこむと、俺たちはN君の家に向かった。

 N君の家は本で埋め尽くされていた。玄関を開けるとすでに本の山が積まれている。奥に見えるワンルームも本に埋め尽くされていて、少なく見積もっても二千とか三千冊はありそうだ。かろうじて人一人通れるスペースが空いており、それがN君の居場所なのだと言うことは分かった。「散らかっててごめんね」とN君は言う。「キッチンはなんとか使えるから」。確かにキッチンは清潔に保たれており、そこにも本はない。「水周りは本がふやけちゃうからね。置けないんだよ」とN君は語る。どうも久しぶりにちゃんとしたものが食えると浮かれているらしい。彼は饒舌になっていた。俺は買い物袋の中から食用油を取り出した。「調理器具は好きに使ってくれていい。ただ本は汚さないでくれ。それは僕の命だからね」俺は本を踏まないようにして奥の部屋に入る。「それで今日は何をつくってくれるんだい?」。なんで俺が奥の部屋に行くのか分からず怪訝そうなN君と見つめあって、俺はニカっと笑った。

「今日の夕ご飯は小説のソテーさ」

 俺は食用油を部屋中の本にぶちまけると、ライターを取り出して火を点けた。このライターは煙草を吸う俺のためにSがプレゼントしてくれたものだった。N君は一瞬何が起こったのか分からないという顔をして呆けていたが、すぐギョッとした顔をして、本の山を蹴散らして燃え盛る本にかけ寄った。叩いて消そうとするが、油の注がれた火がそう簡単に消えるものじゃない。これは悪魔の火だ。N君のすべてを奪う業火なのだ。

「何をするんだ、これは僕の命だぞ!」

「気持ち悪いんだよ、こんなに本を買いやがって! こんなものが恋人の代わりになるわけがないだろ!」

「なるんだよ! なるんだからしかたないだろ!」

 N君は涙目になって叫んだ。俺も泣きそうだった。ヤケになって俺は笑う。

「悪かったよ、N君の命を燃やしてさ。代わりに俺の命を奪っていい。つまり俺の命より大切なSも燃やしてくれていいよ」

 N君は火を消す無駄なあがきをやめ、ポカンとした顔をして僕を見た。

「なんだって。今、君はなんて言った?」

「だから、お前の命より大事な本を燃やしたお詫びに、俺の命より大事なSを燃やしてくれていいって言ったんだ!」

「いったいどうして」

 本に付けた火はどんどん勢いを増し、熱で皮膚がひりひりしてくる。唇を舐めて、口を開く。

「Sにふられたんだ。他に好きな男ができたってさ」

 男は初めてできた恋人に永遠の関係性を信じるものだ。俺にとってもSは初めての恋人だった。俺はとても悔しくて、悔しくて、Sを懲らしめたくて仕方がなかった。何が彼女を懲らしめうるか考えた末、昔捨てた男に殺されるのが一番だろうと思った。

「さあSを殺してくれよ、N君。復讐の時が来たんだ」

 N君は少し驚いた顔をした後、黙っていた。僕を見て、燃え盛る本の山を見て、考えていた。うんと頷くと顔を上げる。

「いや、殺すわけがないでしょう。殺人犯なんかなりたくないし」

N君はキッチンに置いてあった包丁を手にとり、火で刃を温めてから長く伸びた髪をもう片方の手でまとめて包丁でちぎった。

「まずは外に出よう。消防を呼んで、他のアパートの住民を避難させないと」

 そう言ってN君は僕の肩を押して外へ促した。

 

 N君はてきぱきと消防への連絡や近隣住民への避難を促した。その手際は彼がまだSと付き合ってもいなかったあの頃をほうふつとさせた。憑き物が落ちたようなさっぱりな顔をして、野次馬に混じり消防の消火作業を見ている。僕は隣で茫然とたっていた。

「こういう言い方は不謹慎だけどさ、本を燃やしてくれて良かったよ。僕は悲しみに囚われて小説という悪魔に取り憑かれていたのかもしれないね。いや、本のせいにするのは良くないな。僕自身の心に悪魔が住み着いて、本に依存させていたんだ。君は僕の心の悪魔を追い払ってくれたんだ。本当にありがとう。そして君、Sにふられたんだって?」

 N君は僕に向かってにっこりと笑いかける。

「男を捨てて別の男に乗り換えるような女を恋人にしたんだから、自分も同じように捨てられるのは想定できたことだろう?」

 その言葉に僕は頬を殴られた。いつかもらい損ねた間男への制裁のパンチだ。

 N君はこれから正しい人生に復帰するだろうし、Sも新しい彼氏とよろしくやるのだろう。僕はこれから警察につれていかれる。放火の罪って懲役何年だったかな。